デイリーフレネ

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2005年04月18日

VOL/998

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1.高田渡を偲ぶ…
2.葬儀に参列して
3.新宿のお授業―「足は何本?」その2
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★今日はなんの日
1942 アメリカの陸軍機B25が東京初空襲
★今日の花言葉
れんげ「感化」
★今日は誰の誕生日
 紀宮清子(天皇第1皇女 1969)
★今日の名言
『ブルース』
泣くなんて ちいさなこと
ため息つくなんて つまらないこと
だのに このふたつの
大きさを とりかえとりかえして
男も女も死んでいく
詩:エミリー・ディキンソン
訳:中島 完
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高田渡がこの詩に曲をつけて歌っていた。
彼の冥福を祈る…。
-■1.高田渡を偲ぶ…■
四半世紀にわたる友人・高田渡(フォークシンガー)
が亡くなった…。
4月の上旬、北海道の白糠で倒れたことは、これま
た友人のシバ(ブルースシンガー 高田渡と武蔵野
たんぽぽ団を結成)から聞いて知っていたが、まさ
かこんなに早く逝ってしまうとは…。
この1月、ジャパンフレネ主宰の合宿研究会、夜のラ
イブに来てもらったのが最後になった。
彼の歌は1960年代から知っていた。1970年代初頭、
大学をドロップアウトし関西の共同体を放浪してい
たとき、友人が弾いてくれたのが山之口獏の詩に高
田渡が曲をつけた『生活の柄』…。
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歩き疲れては夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれて寝たのです 
歩き疲れて寝たのですが眠れないのです
そんぼくの生活の柄が夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと寝たかと思うと 
またも冷気にからかわれて
秋は秋からは浮浪者のままでは眠れない
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1970年代後半公立学校から三鷹市の明星学園の教師
に転身したぼくは、当時全盛を誇っていた教育誌
『ひと』(編集代表 遠山啓 太郎次郎社)の編集
委員も兼ねていた。
念願だった高田渡のインタビュー記事の企画が通り
、彼に連絡し吉祥寺の飲み屋『笹の葉』で会ったの
が最初だった。確か1980年だったと思う。
カウンターだけの飲み屋に集まる人たち全員が彼の
友達だった。ひょうひょうとして媚を売らない彼の
生き方は、上昇志向を求めないマイペースの生き方
をする庶民誰からも好かれていた。
それから彼との長い付き合いが始まった。あるとき
は、路上に出したビールケースの上に座り、またあ
る時はライブの会場で彼といろいろ話すことができ
た。酔っ払って泊めてもらったこともある。
深刻な話は二人ともしなかった。今考えるとたわい
のないこと、雑談の類…。しかし時折、彼の小学校
時代の学校生活の話にもなった。
「当時の学校給食で脱脂粉乳が出たよねえ。あれを
まずいって言う人が大半だけれど、僕に言わせれば、
あんなに美味しいものはなかったね。もう極貧生活
だったから」
「学校の先生なんていい加減だよね。貧しくて給食
費を払えないんだけれど、黒板に払えないやつの名
前を書くんだよ」
あるとき、研究会のイベントでライブをやってもら
った時、遅くまでホテルのロビーで飲んでいた渡ち
ゃん。ロビーのソファーで酔いつぶれて寝込んでし
まったらしい。
ふと寒気がして目覚めると、彼の身体に模造紙が1枚
かけられていたとか…。「ひどいよねえ。模造紙だ
よ、模造紙。せめてシーツにしてもらいたかったな
あ」これは<模造紙事件>として後まで語り継がれ、
そのたびに笑いの種になった。
しかし、彼はよく飲んでたなあ。マス酒の角に塩を
乗せ、塩をなめなめキュッとやる。明星学園時代、
その後の自由の森学園時代、ジャパンフレネの時代
でも年に1回ぐらいはライブをやってもらったが、飲
まないで演奏したことは一回もなかった。ある時は
、缶ビール片手に現れた。
「渡ちゃん、ここは学校だよ」
「いいじゃない、ビールぐらい」
笑ったなあ!
一昨年、吉祥寺の立ち飲み焼き鳥屋・伊勢屋で飲ん
でいた時のこと…。
「教育研究会でトークショー頼まれているんだよね。
学力問題で」
「あ、俺、学力問題、得意!」
「えっ、そうなの?じゃあ二人でトークショーをや
ろう!」
「やろう!やろう!」
しかし、飲んだ勢いとはいえ、こんな感じでトーク
ショー&ライブが決まっていいのかなあ。これも思
い出の一つだなあ。
ぼくの出版記念会でライブをやってもらったことも
ある。
「CDを持って来ようと思ったんだけれど、かみさ
んが『木幡先生の出版記念会に呼ばれたのにCD売
るのは失礼でしょ』って言われたので持って来ませ
んでした」
大爆笑!
偉ぶらない、媚を売らない…。
昨年のクリスマスイブ、吉祥寺の伊勢屋の前を通っ
たら、やっぱりいた。一人で飲んでいた。
「渡ちゃん、1月のライブ忘れてないよね」
「あ、先生!だんだんカポネみたいになってきたね
え!大丈夫、忘れてないから」(この時、ぼくは黒
い帽子を被っていた)
「この人、数学の先生なんだけれど全然数学的じゃ
ないんだよね、変な先生なんだよ」
そして1月の合宿でのライブ…、酔っ払ったぼくは
渡ちゃんの隣に行き、一緒に『生活の柄』を歌った。
合宿でのワークショップでは「俺も何か作品を作って
みようか」と、ちぎり絵に挑戦。
その作品は額装され我が家のリビングの壁に掛けら
れている。<2005.1.9 高田渡>のサインとともに…。
合掌…。
■2.葬儀に参列して■
友人・高田渡の葬儀が吉祥寺カトリック教会で行わ
れた。身内・仲間内の葬儀ということだったが口コ
ミで400人もの参列者が…。
70年代前後の音楽状況を知っている人にはおなじみ
の顔ぶれがたくさん集まった。シバ、大塚まさじ、
加川良、三上寛、友部正人、中川五郎、なぎらけん
いちetc…etc…。
筑紫哲也の挨拶の後、多摩葬儀場へ。彼の思い出を
肴に、ここから延々と飲みつづける…。高田渡なじ
みの伊勢屋、そしてライブハウス「のろ」へ…。
関西出身のシンガーが叫ぶ。
「『渡を先に逝かせたのは誰か!』とぼくは言いた
いよ。あいつは酒もタバコもやらなかったんだ。だ
いたい、ライブのステージで寝ちゃうなんて伝説、
要するに酒に弱いってことなんだよ。ある時、『お
れがタバコを吸うとしたら何が似合うかなあ?』っ
て聞くから、冗談に『缶ピーかなあ?』ってこたえ
たら、翌日、吸えもしないのに缶ピーをぷかぷかや
ってるんだよ。そういうやつなんだよ」
息子の漣君も言っていた。
「これから高田渡」はどんどん神格化されていくと
思うんだけれど、本当は実に困ったオヤジなんです
よ。そういうことも含めて、高田渡を見てほしい」
その通りだと思う。実像と虚像のはざまで、ひとは
ある程度の演技を強いられて生きていくのかもしれ
ない。
この夏、JF主宰の合宿で<高田渡>追悼ライブを
行う。
■3.新宿のお授業―「足は何本?」その2■
   ↓
http://www.jfreinet.com/report/index2004.htm
今日は前回の授業の続き、「足は何本?」
前回はアリの体についていろいろ考察したね。足
は6本だった。では、
「虫は全部、6本足かな?」
「くもは8本!」
「ムカデはいっぱい足があるよ」
「足がない虫もいるよ、ミミズ!」
と、よう君。
虫の足の数から「昆虫」の話へ。「昆虫」の特徴
は、足の数だけではないね。フレネにあるサソリ
の標本を観察しながら、昆虫との違いを探す。
さらに「哺乳類」・「鳥類」・「両生類」などの
違いや特徴をみんなで考える。
「猫にもおへそがあって、クルクルってなってたよ」
(ちせちゃん)
「かえるの指の間ってこうなってる」(水かきの絵
を描く、よう君)
みんなよく観察しているね!
たくさんの他の生き物と共生している人間。小さな
虫や動物にも命があって、おもしろい特徴をもって
いることを考えた40分でした。